The Boy of the Wind
「存在の鳥肌」
風の少年は、唯一無二のモモンガであった。最も無邪気に規律と遊び戯れていた。
「お世話になっております、学務企画課の野村でございます。」
美紀へ書き出しながら、この滑稽な形式に吹き出すまいと必死に舌を噛んだ。意図的に、わざわざ電子メールの代わりに紙に直筆された実際の書面である。
「幾つか質問とお願いがございます。
1)ソフトウェアのお求めに関しまして、選定された理由をお知らせ願います。購入価格が高額となりますが、同様の機能で、より安価なものを検討されましたでしょうか。 また、検討の末、この商品になさったことに際しまして、商品購入の決め手となったのは何か、記載をお願い致します。
2)購入されるソフトウェアを学内備品として流用することは可能でしょうか。
3)上海への旅のしおりを西田先生のオフィスのポストに挟んでおきました。今月16日の上海研修の際にお持ち下さい。また、レシートの提出の方を宜しくお願いいたします。」
風の少年は、ガールズバーでの夜勤と九州大学の秘書業務を両立することに随分慣れてきた。美紀を除いて、大学の同僚達は、彼女が実際は(というより生物学上は)女子であるとは、まだ誰も知らなかった。
彼女は、たっぷりの唾液で封筒に封をした。
なぜだか急にとても愉快に思われて、出血するまで舌を噛んだ。
喜和夫詩人がいれば、「存在の鳥肌、存在の鳥肌」とでも言っただろう。
[The Goosebumps of Being]
There was no flying squirrel quite like the boy of the wind, fooling childishly with discipline.
“I will be much obliged. Humbly addressing you is Nomura of the Academic Affairs Planning Division,” the writing went to Miki, biting the tongue to avoid laughing at the outrageous formality.
On purpose, a real letter handwritten on paper instead of an email.
“I have a few questions and requests, if I may.
1. With respect to the software order, please indicate the reason why you selected it. Given that the purchase price is quite expensive, have you searched for a cheaper product with the same function? If, considering the results of such examination, the current product is after all to be preferred, please provide a rationale for its necessity.
2. Would it be possible to implement the prospective software using on-campus equipment?
3. I have put a guidebook for Shanghai in Dr. Nishida’s office mailbox. Please bring it with you for the Shanghai training camp on the 16th this month. Also, please submit your receipts.”
The boy of the wind had become quite accustomed to combining the night shifts at the girls bar with the secretary work at Kyushu University. Apart from Miki, the colleagues at the University still didn’t know she was in fact (biologically speaking) a girl.
She sealed the envelope with plenty saliva.
Somehow, she got carried away, and bit her tongue in glee until it bled.
If it were the poet Kiwao, he’d call it, “The goosebumps of being, the goosebumps of being.”
「不羈独立」
修猷館、“Sure, you can! ”
二百年以上の歴史を持つ日本屈指の伝統校で、かつて美紀も通っていた高校である。風の少年は、自分のことを阿呆だと思っていたが、どういうわけか、ここの入学試験に合格することができた。その幸運が信じられず、真実であることを確認するために彼女は自身を突き刺さねばならなかった。
安全ピンを手に取り、そのまま前腕を深く劈く。
鋭く走る激痛が、他のあらゆる喜びよりも遥かに甘美であることを、風の少年はこの時初めて気づいてしまった。其の瞳は輝き其の唇は顫えた。
家の、床屋独特の静寂の中、先輩から教えてもらった標語が頭の中で鳴り響く。
「不羈独立。」
「質朴剛健。」
「自由闊達。」
こういったものだ。ならば、
「切断ヴィーナスの本質を追求しよう。」
「これがあたしなのだ。」
無垢な考えに惑わされてはいないか。真に善意に満ちていたとしても、考えることすべてが正しいとは限らない。
彼女は狂人解放乃荒治療に取り掛かった。両親の仕事道具である見事な鋏のコレクションを広げ、あらゆる類の切り傷、刺し傷、非行、刷新を実験し記録していく。最初の成果として、小指の爪を剥がし(バスケでの事故、と周囲には謀る)、誇らしげにその記念すべき一ページ目に貼り付けた。
[Free and Independent]
Shuyukan, “Sure, you can!”
One of the best traditional schools in Japan with a history of over two hundred years, also the high school where Miki used to go. The boy of the wind thought of herself as a moron, yet somehow, she was able to pass the entrance exam here. Not believing her luck, she had to stab herself to make sure it was true.
She took a safety pin and penetrated it deep into her forearm.
This was the first time the boy of the wind noticed that the anguish from a sharp pain is far sweeter than any other pleasure. Her eyes shone and her lips trembled.
At home, in the quietness of the barber shop, slogans taught by seniors were ringing inside her head.
“Free and independent.”
“The vigor of simplicity.”
“Open and natural.”
That kind.
“Let’s shape the true form of Amputation Venus.”
“This is what I am.”
Doesn’t an immaculate idea throw you off? Even though we’re full of good intentions, what we think is not always right.
She started writing the Madman’s Emancipation Therapy, and experimented with all sorts of cuts, stabs, transgressions and transitions using her parents’ impressive collection of scissors. For her first milestone, she tore the nail of her pinky off (a so-called basketball accident) and proudly pasted it on the memorable opening page.
「不思議な再生」
おそらく六つか七つの頃に、風の少年は、忽ち件の真相を理解することとなった。
窓に打ち付ける雨脚は強く、ベランダ上の屋根に絶え間なく雨音を奏でた。照明がどれも点け置かれたまま、沈黙で張り詰めた居間で、両親は激しくぎくしゃくした仕草で忌々しい喧嘩をしていた。
喧嘩の火種は、紛れもなく彼女についての何かだった。だとしても、自身は何も悪いことをしていない、と彼女は了知していた。
「強制不妊手術について定めた旧優生保護法について、地方裁判所において、憲法違反を認めながらも原告の請求を棄却する判決を言い渡した」という逆説を理解するには、当然彼女は若すぎた。
ザアザア、ザアザア。ベランダ上の屋根が軋む。
風の少年は、両親が二人とも聾者だと知っており、それが結婚して二人とも理髪師になった理由だと汲んでいた。
しかし、彼女は二人とは異質だった。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。
息を潜め、彼女はベランダ上の屋根を鳴らしていた雨にじっくりと耳を傾け、頬を伝う涙を無視していた。
その瞬間、稲妻が走った。
両親は両親ではなかった。
[A Mysterious Rebirth]
Perhaps at the age of six or seven, the boy of the wind suddenly found out the truth of the matter.
The rain whipped against the window and beat a rattling noise on the roof above the veranda. With all the lights left on, her parents were having a nasty quarrel in the great silence of the living room, gesturing with violent jerky movements.
Without a doubt, the problem had something to do with her. Even so, she knew she had done nothing wrong.
Of course, she was too young to understand the paradox that “With respect to the old Eugenic Protection Law regulating forced sterilization, the District Court rejected the plaintiff’s request while conceding there had been a violation of the constitution.”
Rattling, rattling on the roof above the veranda.
She knew her parents were deaf, and she had a hunch this was why they got married and became barbers.
But she was different. A mysterious rebirth into an unpredictable world.
Holding her breath, she listened intensely to the rain rattling on the roof above the veranda and ignored the tears rolling down her cheeks.
Right at that moment, lightning flashed.
Her parents were not her parents.
「女神とのセックス」
何年も前、ある日の夕暮れに、大勢の人が滑稽な小旗を掲げながら、皇位継承の儀式で新天皇の到着を心待ちにしていた。理由もわからぬまま、誰もがいたく興奮していた。
天皇は神性を剥奪されたはずであったが、されども儀式は続けられていた。男は群衆に手を振り、その姿がカメラに収められる。
運のいいやつめ。この特別なお人は真っ白なローブに身を包み、天照大神と一夜を過ごすべく、木造のお堂の暗がりに案内されるところだった。
いわば。あたかも。
風の少年は、フィクションを必要とし、盲信を当てにする。
「十数億円も、誰が払っているんだ。 これは妥当な額か?」若い理髪師は、手話で呟いた。
彼の隣には、同じく聾者の、「違憲」と書かれた看板を掲げた若い女性が立っていた。
政府によれば、儀式は、女神との結婚ではなく、饗宴として成り立っていた。しかし、問題は女神とのセックスより、俗塵の金だった。
「憲法の政教分離規定は国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである。」こう最高裁判所は判決を下した。笑いの種が盡きぬようにと、饒舌を売る。
いわば。あたかも。
風の少年は、不信が不可欠で、ノンフィクションを渇望する。
判事は、若い聴覚障害者カップルの苦悩を痛いほど理解していながら、彼らを逮捕するよう命じた。
[Sex with a Goddess]
One day many years ago, the sun already setting, a mass of people with silly little flags eagerly awaited the arrival of the new Emperor for the ascension ceremony. No one knew why, and everyone was very excited.
The Emperor was supposed to have been stripped of divinity, but the ritual continued anyway. The man waved to the crowd, and the cameras filmed.
Lucky bastard. This designated human was wrapped in a pure white robe and about to be escorted into the dark of a wooden hall to spend the night with the Great Goddess Amaterasu.
So to speak. As if.
The boy of the wind needs fiction and wants belief.
“Billions of yen, who’s paying? You call this appropriate?” a young barber gestured in sign language.
Next to him stood a young woman, also deaf, holding a signboard with the word “Unconstitutional.”
According to the government, the ritual was configured not as a wedding with a goddess, but as a formal banquet. Yet the problem was the earthly money rather than the sex with a goddess.
“The constitutional separation of politics and religion does not imply that the nation can never be allowed to engage with religion, but this is not allowed when deemed to exceed the limit of what is appropriate.” Thus, the ruling issued by the Supreme Court. They sell their eloquence to keep the laughter flowing.
So to speak. As if.
The boy of the wind requires distrust and craves nonfiction.
The judge deeply understood the pain of the young deaf couple and ordered to have them arrested.
「最も愛おしい沈黙」
新天皇は松明の光に導かれて、特設された神社の建物に入り、白いカーテンの奥へと姿を消した。
薄暗い部屋には二人の采女がおり、更にベッドと掛け布団があり、天皇はそれらから距離を保つべきとされていた。(コロナ時代よりずっと前の話であるが。)
「べき」とは、まあ…。
九か月経ったある日のこと、「男性または女性を、男性または女性以外の何かに変えることは、神聖な行為・所業でございます。」と判事は、若い聴覚障害者のカップルを前に、輝かんばかりの笑顔で説教をした。
最初の逮捕で住所を記録してあったので、彼らを再逮捕するのは容易であった。
「千歳、千歳、 千歳や、
千年の千歳や、
萬歳、萬歳、萬歳や、
萬世の萬歳や、
尚、千歳、尚、萬歳。」
そう歌いながら、判事はチャイルドシートを覆っていた毛布を取り払った。
両親がかつて不妊手術を強行されたと知っていたので、判事は彼らに風の少年を与えることとした。
赤ちゃんはサイレンのように泣き叫び、大喜びした里親は、神、天皇、采女に感謝した。彼らには、最も愛おしい沈黙だけが聞こえていた。十年百年ここに静坐するとも、なお飽くことを知るまいと思われた。
「ひたすら反復的」
詩人の喜和夫は、もう何年も前から禅語のような詩を書いてきたが、それが博士課程の指導教員だった西田先生の影響によるものであると疑いようもなかった。
容赦なく、ひたすら反復的なのだ。毎度深い吐息をついて、自分の心が刺されるように感じた。
ところが、彼の詩は風の少年に出逢って以降、劇的に変わることとなる。
聞いてみるとしよう。
以下に続くのは、喜和夫詩人の初期の断片である:
「 … 存在あるいは虚無。 … 野の花、存在。 …
馬を野に放つ、そして虚無、菜の花、脳の花。 …
馬、黒馬。 … 逸れたハムレット、蛇の道は蛇。 …
波が岩を洗っている、手の神経質な動き。 …
無くなった菜の花、悲しい野との和。 …
喜々として、難しい原典を解きほぐしている。 …
脳の花、馬。 … 喜々として、喜々として。 …
存在あるいは虚無、蛇の道は蛇。 … 」
まるで寝言のようで、点ごとに三秒ずつ待っていると浮遊感さえある。
試せば、の話だが。
これはこれで良いのだが、言葉が頭に留まることなく、バニラセックスのようにただ行き来するようである。
風の少年が初めてこのような詩を聞いたとき、あまりに退屈して、彼女は働いていたガールズバーの厨房へ向かい、見つけてきた安全ピンで左乳首にピアスを開けた。
「反応があまりに衝撃的」
詩人喜和夫の詩は、風の少年に出逢った後で明らかに覚醒したが、これはおそらく彼女の反応があまりに衝撃的だったためである。
衝撃、興奮、想像だにしない行動の爽快なまでの急進性。
それ以来この乙女な夢想家は、残忍な決裂、一連の銃声、ある種のブルータリズムについて、禅語のような詩を書き続けている。
聞いてみるとしよう。
以下に続くのは、喜和夫詩人の事件後の断片である(以前と同じ詩が、風の少年の両親を念頭に書き直されたもの):
「手の神経質な動きで、存在あるいは虚無。洪水で全村が滅した、喜々として。馬を海に放つ。質問の洪水。脳の花、海馬。滅した。岩を洗っている。波が岩を洗っている。質問の洪水、悲しい野との和。洪水で全村が滅した。真理の難破、喜々として、肉体美の無駄ロ。手の神経質な動きで、無くなった肉体美、真理。脳の花そして虚無。」
すべての点を呑み込んで、溺れているかと錯覚する。
避けようとしたとて、脹れ上る肉の疼きに堪えかねる。
風の少年が再びこのような詩を聞いたとき、狂喜のあまり、彼女は働いていたガールズバーの厨房へ向かうとすぐ同じ安全ピンを取り、右乳首にピアスを開けた。
「なぜかそこに、葡萄」
「生きるとは、濃密な闇、そのところどころ、地から光が漏れて、なんだろう、近づくと、窓」と、喜和夫詩人が寝言のようにむにゃむにゃ呟く傍ら、風の少年は彼の焼酎を補充した。二十五度のミューズ。
ガールズバーに他の客もいなかった。
彼女はテレビを消し、普段は誰も聴きたがらないセシル・テイラーの即興ジャズピアノのCDを回すと、カウンターの奥から回って孤独な友人の隣に腰掛けた。
芋虫のようにむくんだ顔の喜和夫は、可哀そうに、華やかな青いワンピースを着たまま、憂鬱な気分に襲われていた。
酷いジャズで一層沈んでゆく。
風の少年曰く、「ただのドラァグクイーンじゃ、つまらない。」
彼女は、彼のペニスが欲しかった。
世界初のペニス完全移植手術は見事成功したらしく、移植したペニスの勃起やオーガスムも確認されたらしい、と喜和夫に熱弁する。
本物の少年になる機会がやってきた、彼自身のペニスで、最初に彼と性交することを約束する、そう彼女は囁いた。
喜和夫は、ただ目の前の皿を穴が開くほど見つめていた。奇妙な呪文に憑かれていたというだけであった。
なぜかそこに、葡萄があった。
[For Some Reason, There Were Grapes There]
“Life is, clenched darkness, dotted, with light blinking up through the ground, I draw near, wondering what it is, a window,” the poet Kiwao mumbled as if asleep, while the boy of the wind replenished his shochu. The twenty-five-degree muse.
There were no other customers in the girls bar.
She turned off the TV, played a CD of Cecil Taylor’s improvisational jazz piano that no one would normally want to hear, came from behind the counter, and sat next to her lonely friend.
Like the caterpillar of a hawk moth, with a puffy face. Kiwao suffered a bout of depression, wearing a gorgeous blue dress.
The horrible jazz made it even worse.
The boy of the wind said, “Just being a drag queen is boring.”
She wanted his dick.
Excited she told Kiwao. Apparently, the world’s first complete penis transplant operation had been a great success, with confirmed erection and orgasm of the transplanted penis.
There was a chance for her to become a real boy, and she whispered she would promise to fuck him first with his own penis.
With his gaze Kiwao just continued drilling a hole into the plate in front of him. For a while, he just sat there in ecstasy, possessed by a strange spell.
For some reason, there were grapes there.